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2023年02月22日

1971 Mの死

1971 Mの死
                       
学生運動やら演劇クラブでの酒と論争やらの日々を過ごしたせいで、私は多くの単位を落としていた。琉球大学の国文学科に入学して五年が経過していたが今年も卒業の見込みがなかった。
一九七一年六月一七日、五年次の私は三年次の学生と一緒に中世文学の講義を受けていた。古典に全然興味のない私だったが卒業するためには必修科目の中世文学を受講しないわけにはいかなかった。窓際に座り、教授の講義を念仏のように聞きながら、青空と白い雲の下の慶良間諸島や遥か遠くに見える読谷飛行場の像のオリをぼんやりと眺めているうちに講義の終了のベルは鳴った。五年次の私には親しい学生はいないので講義が終わっても雑談する相手はいなかった。講義が終わるとすぐに講義室を出た。生協の食堂でカレーライスを食べ、それから崖道を下って、トタン屋根の我が演劇クラブ室にでも行こうかと思いながら廊下を歩いていると、背後から、
「先輩」
聞き覚えのある声がした。振り向くと一年後輩の礼子だった。
「先輩、明日、与儀公園で県民大会があるけど、参加できないですか」 
礼子は私を県民大会に誘った。学生運動と距離を置くようになっていた私は県民大会に参加したくなかった。
「県民大会かあ。ううん、どうしよう」
私が県民大会に行くのを渋っていると、
「なにか用事があるのですか」
と、礼子は訊いた。
国文学科委員長をしていた頃は私が礼子を学生集会に熱心に誘ったし、県民大会などに何度も一緒に参加した。礼子は運動音痴で弱虫であったが、デモの時に機動隊にジュラルミンの盾でこずかれて怪我をしたり、一部の学生が火炎瓶を投げつけたために機動隊に襲われる怖い体験をしても学生運動に参加し続けていた。礼子とは違い、学科委員長を辞めてからの私は次第に学生運動に距離を置くようになり学生集会や県民大会などに参加しなくなっていた。
「明日は家庭教師の仕事があるんだ」
「無理ですか」
「無理かもしれない」
「できたら参加して欲しいです」
いつになく礼子はしつこく私を県民大会に誘った。今までも何度か学生集会や県民大会に誘われたが私はヤボ用があるといって断った。その時は、「それでは次には参加してください」といって礼子は私を誘うのをあきらめた。しかし、今日の礼子はすぐにはあきらめなかった。家庭教師をする家はどこですかと聞いたり、家庭教師の日を変更できませんかと聞いたりした。礼子は来年卒業する。就職活動もあるし県民大会や学生集会に参加するのをそろそろ終えようと思っているのだろう。だから、私を県民大会に誘っているのかもしれない。礼子と話しているうちに、私は礼子の誘いを断るわけにはいかないと思った。
家庭教師をやる家は那覇市の立法院の近くにあった。立法院前から市内線のバスに乗れば開南を通って与儀公園まで直行で行ける。家庭教師を早く終われば県民大会に間に合わせることができるだろう。
「家庭教師を早く切り上げれば県民大会に間に合うかもしれない」
礼子はほっとしたように微笑んだ。
「そうですか。よかった。それでは、明日の県民大会で」
と言って、礼子は去って行った。

一九七一年六月一八日、私は家庭教師の仕事を早めに終わって、スーツに革靴のまま与儀公園に行った。その日の県民大会は、宇宙中継によって東京とワシントンで結ばれた「沖縄返還協定」に抗議する県民大会であった。日米政府による「沖縄返還協定」締結によって、来年の一九七二年五月一五日午前0時に沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生することになる。 
バスを降り、与儀公園に入った私は、公園に並んでいる団体の中に琉球大学自治会の学生集団を探したが、見つけることができなかった。変に思いながら公園内を見渡すと、大会場の後ろの方に白いヘルメットの集団が見えた。近づいていくと、琉球大学の自治会長がハンドスピーカーを握り、県民大会の議事進行を無視して、公園の芝生に座っている学生たちに向かってがなり立てているのが見えた。私は学生集団の中に礼子たちを探した。手を上げている女性が目に入った。見ると礼子だった。私は後輩の学科委員長に「よっ」と挨拶をしてから礼子のいる集団に混じった。
礼子たちは四年次であり来年は卒業するので、私たちの雑談は卒業の話になった。
「卒業したらなんの仕事をするんだ」
「中学校の先生よ」
「え、弱虫のお前が中学校の先生になるのか。いじめられて泣かされるぞう」
私がからかうと、
「仕方ないでしょ。他にいい仕事がないもの。先輩は今度卒業できるの」
礼子は反撃してきた。痛いところを突かれて、私が返答に困っていると、
「ほら、先輩は卒業できないのでしょう。他人のことをとやかく言わないで自分のことを心配したほうがいいわ」
「他人のことをとやかく言って悪かったな」
などと雑談していると、学生運動のリーダーたちから立ち上がるように指示された。
「県民大会はまだ終わっていない。どうするのだろう」
「さあ、知らないわ」
琉球大学の学生集団は立ち上がり、ジグザグデモを始めた。そして、革新政党や労働組合の代表が居並んでいる会場の前に出ると、演壇の周囲をぐるぐる回り始めた。デモ隊の中から数人のヘルメットを被った学生が出てきて、演壇に駆け上がり、演説している労組の代表者と進行係を排除して演壇を占拠した。学生たちは演壇の中央で日の丸と星条旗を交錯させるとふたつの旗に火をつけた。灯油を染み込ませた日の丸と星条旗は勢いよく燃えた。演壇の回りをジグザグデモしている学生たちの意気は上がり、シュプレヒコールは大きくなった。
私は、日の丸と星条旗が燃え終わると、デモ隊は意気揚々と元の場所に戻るだろうと予想しながら演壇の周囲をデモっていた。すると、労働者の集団がデモ隊に近づいてきた。私はその集団はデモ隊への抗議の集団であり、デモを指揮しているリーダーたちと押し問答が起こるだろうと予想していたが、労働者の集団がデモ隊に接近すると、デモ隊の一角が悲鳴を上げて一斉に逃げ始めた。労働者の集団は抗議をするためではなく、学生のデモ隊を実力で排除するためにやってきたのだった。県民大会の演壇を占拠し、日の丸と星条旗を燃やしたのは横暴な行為であり許されるものではない。しかし、だからといって労働者集団が学生のデモ隊を問答無用に襲撃するのは私には信じられないことだった。唖然とした私は、逃げ惑う学生たちの流れに押されて走った。走っている途中で、前日の雨でぬかるんでいる泥土に足を取られ、片方の革靴が抜けてしまった。私は革靴を取るために立ち止まろうとしたが、逃げ惑う群の圧力は強く、私は群れに押し流されて与儀公園の外に出た。
片方の革靴を失った私は困った。スーツと革靴は上流家庭の家庭教師をしている学生には必需品であり、貧乏学生の私は高価である革靴をそのまま諦めるわけにはいかなかった。はぐれてしまった礼子たちのことが気になったが、それよりも革靴の方が私には切実な問題だった。会場が落ち着いてから与儀公園に戻ろうと、私はバス停留所に向かう学生たちの群れから離れて道路の脇に立ち、与儀公園の様子を見ていた。すると、照屋さんが近寄って来て、
「どうしたの」
と私に訊いた。照屋さんは情報収集を専門に活動している学生運動家だった。

私が学科委員長をやっていた時、照屋さんと私は那覇署の様子を探るために那覇署の近くのバス停留所で張り込みをしたことがあった。私と照屋さんは那覇署が見えるバス停留所のベンチに座っていたが、なんの飾り気もない服を着ている男女がバス停留所に長時間座っているのを逆に警官に怪しまれて私と照屋さんは那覇署に連れて行かれた。私たちの服装や表情を見て、私たちが学生運動家であることを警官はすぐに分かっただろう。私は数人の警官に囲まれて素性を聞かれた。私は無言を貫いた。私の態度を生意気だと思った背の低い警官が私の腹を突いた。ぐっと私が腹を固めて我慢したので、お、こいつ腹を固めたぞ、結構腹が固いなと言いながら一発目より強く突いた。私はカーっと頭にきた。もし、あと一、二発腹を突かれたら私は警官に殴りかかる積もりになっていた。私の気持ちは顔にも表れたのだろう、警官は真顔になり、なんだお前は、やる積もりかと私を睨んだ。私は睨み返した。その時、隣の警官が、「やめとけ、比嘉。大人げないぞ」と背の低い警官を制した。我に返った比嘉という警官は苦笑いしながら去って行った。黙秘を通したので留置場に入れられるのを覚悟したが、暫くして私と照屋さんは解放された。

私は照屋さんに革靴を演壇の近くのぬかるみに取られたことを話した。すると照屋さんは、暫くの間様子を見てから与儀公園に戻る予定だと言い、
「私が革靴を探してあげるから、あなたは自治会室で待っていて」
と言った。学生運動から離れている私は自治会室には行きたくなかったので、自分で革靴を探すと言った。すると、照屋さんは顔を曇らせて、「男は危険だから」と言った。
「主催者側となにかトラブっているのか」
と、私が訊くと、照屋さんは頷いた。照屋さんの話では、県民大会の主催者側と琉球大学自治会は険悪な関係になっていて、琉球大学自治会の県民大会への参加は認められていなかったという。

日本は沖縄の祖国であり、母なる祖国に復帰するのが沖縄の悲願であると主張している祖国復帰運動家にとって、日の丸は祖国日本の象徴であり崇高な存在であった。ところが、その頃の琉球大学自治会は、崇高なる日の丸を、こともあろうに祖国復帰運動家たちが目の敵にして最も嫌っているアメリカの象徴である星条旗と交錯させて一緒に燃やす行為を繰り返していた。星条旗と一緒に日の丸を焼却する琉球大学自治会の行為は、日の丸を祖国復帰運動の象徴にしている運動家たちを嘲笑し侮辱しているようなものであった。だから、与儀公園の県民大会の主催者は琉球大学自治会を嫌悪し、参加を許可しなかったし、演壇で日の丸と星条旗を燃やした琉球大学自治会の学生集団を実力で排除したのだろう。
琉球大学自治会のデモ隊が労働者集団に襲われた事情は知ったが、だからといって私が労働者集団に襲われるのは考えられないことであった。私は自分で革靴を探すと言った。しかし、照屋さんは、私の顔は彼らに覚えられているかも知れないから危険だと言い張った。私は学生運動でそんなに派手なことをやっていなかったし、一年近く学生運動から離れている。労働者集団に私の顔を覚えられていることはないと思ったが、照屋さんは私の身を心配してくれて私が与儀公園に戻ることに反対しているし、照屋さんと押し問答を続けると照屋さんの活動を邪魔してしまう。私は仕方なく照屋さんに革靴のことを頼み、琉球大学の自治会室に向かった。
首里にある琉球大学の自治会室に到着した私は自治会室には居たくなかったので、照屋さんが来たらキャンパスに居ると伝えてくれるように顔見知りの学生に頼んで自治会室を出た。むさくるしい自治会室を出ると、満天の星々が煌めいていた。
木々が林立しているキャンパスは闇に覆われ、所々に立っている外灯の周囲は白っぽい空間を作っていた。自治会室の開けっ放しの出入り口や窓から漏れている蛍光灯の光を背にして、私は芝生を踏みながら歩き、腰を下ろすのにほどよい場所を探した。薄闇の中を進むとガジュマルの木が植わっている場所があり、私はガジュマルの木の根に腰を下ろした。
那覇市で一番空に近い琉球大学のキャンパスには初夏の涼しい風が吹き、頭上のガジュマルの枝葉をざわつかせていた。
・・・・・県民大会に行かなければよかった。県民大会に行かなければ、今頃は間借り部屋でのんびりとラーメンを食べていた・・・・・私はガジュマルの幹に背を持たせながら、県民大会に行ったことを後悔していた。
 礼子たちのことが気になった。国文学科は女性が多い。このような襲撃で被害を被るのはいつも女学生たちだ。私が学科委員長になった頃から琉球大学の学生運動は急に過激な行動が増えていき機動隊に襲われることが多くなった。礼子と一緒のデモで最初に機動隊に襲撃されたのは開南交番所の焼き討ち事件だった。
国際通りから与儀公園に向かう途中の開南交番所に来た時、リーダーたちの指示でデモ隊は交番所の周りをぐるぐる回り始めた。デモの予定コースや行動については学科委員長である私に前もって知らされるが、交番所の周りをぐるぐる回るのを私は知らされていなかった。顔見知りのリーダー格の津嘉山がデモ隊の中から出てきて交番所の前に立つと、隠し持っていた火炎瓶に火を点けて交番所の窓に投げつけた。一発目は燃えなかった。二発目を投げると交番所の中から炎が燃え上がった。デモ隊は威勢が上がったが、私の周囲にいる女学生たちは恐怖で顔をひきつらせていた。暫くすると後ろのほうで悲鳴が聞こえた。機動隊が襲ってきたのだ。パニック状態になっている礼子たちはどうしていいか分からないで戸惑っていた。「逃げろ」。私は礼子たちに逃げるように指示した。見る見るうちに機動隊は近づいてきた。交番所を焼かれた機動隊の勢いはいつもより激しかった。
「早く逃げるんだ」
私は激しく迫ってくる機動隊を見ながら叫んだ。礼子たちは平和通りのほうに逃げた。私はゆっくり走りながら礼子たちが去っていくのを見守っていたが、機動隊のひとりが私を狙って追ってきた。私は礼子たちとは逆方向の与儀公園の方に向かって逃げた。機動隊はしつこく私を追いかけてきたので私は路地に逃げたが、路地は崖になっていて行き止まりだった。私は数メートルの崖下に飛んだ。着地したところは家の庭だった。機動隊からは逃げ切れたが、飛び降りた時に私は足に怪我をした。
 あの時の礼子は逃げる時に転んで手足に軽い怪我をしていた。今日は日の丸と星条旗を県民大会で焼却したために労働者集団に襲撃されたが、革靴をぬかるみに取られた私は立ち止まったりしたので礼子たちより逃げるのが遅れた。後ろから走った私は礼子や他の国文学科の学生を見なかったから今日は転ばないで無事に逃げただろう。

ソ連、中国、モンゴル、北朝鮮、北ベトナムなどアジア大陸のほとんどの国が日本やアメリカと対立する社会主義国家であり、アジアの社会主義圏は拡大しつつあった。ベトナム戦争は敗北の色が濃くなり、南ベトナムが北ベトナムに併合されて社会主義国家になるのは時間の問題だった。米軍が駐留していなければ北朝鮮に侵略される可能性が高い韓国、中国侵略に脅かされ続けている台湾、フィリピンの共産ゲリラの不気味な存在。カンボジアなどの東南アジアの毛沢東主義派の武力攻勢など、アジアは共産主義勢力がますます拡大し、日米政府にとってますます沖縄の軍事基地は重要な存在になっていた。
ベトナム戦争で莫大な国家予算を使って経済危機に陥ったアメリカは沖縄のアメリカ軍基地を維持するのが困難になり、経済力のある日本の援助が必要となっていた。そこで、日米両政府は沖縄を日本に返還することによって、沖縄の米軍事基地の維持費を日本政府が肩代わりする方法を考えだした。
沖縄が日本の一部になれば米軍基地を強化・維持するための費用を国家予算として日本政府は合法的に決めることができる。米軍基地の維持費を日本政府が肩代わりするための沖縄施政権返還計画は着々と進み、1971年6月17日、宇宙中継によって東京では外相愛知揆一が、ワシントンではロジャーズ米国務長官が沖縄返還協定にそれぞれサインした。これで「沖縄返還協定」は1972年5月15日午前0時をもって発効し、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生することになった。
日米政府による沖縄施政権返還協定に反発したのが「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」と日米政府が全然考えていない非現実的な祖国復帰を自分勝手に妄想し続けていた沖縄の祖国復帰運動家たちであった。妄想は妄想であり現実ではない。妄想が実現することはありえないことである。
沖縄を施政権返還すれば沖縄のアメリカ軍基地の維持費を日本政府は堂々と国家予算に組み入れることができる。泥沼化したベトナム戦争のために莫大な戦費を使い果たし財政的に苦しくなっていたアメリカを日本政府が合法的に経済援助するのが沖縄の施政権返還の目的であった。それが祖国復帰の内実であった。ところが「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」という妄想を吹聴し続けた祖国復帰運動家たちは、祖国復帰が実現するのは祖国復帰運動が日米政府を動かしたから実現したのだと自賛しながらも、施政権返還の内容が自分たちの要求とは違うといって反発をした。妄想の中から一歩も飛び出すことができない祖国復帰運動家たちは祖国日本に裏切られたなどと文句をいい、日米政府が100%受け入れることがない非現実的な「無条件返還」の要求運動を展開した。
ソ連・中国等の社会主義圏とアメリカ・西ヨーロッパ諸国の民主主義圏との緊迫した世界的な対立やアジアの政治情勢やベトナム戦争の劣勢を考えれば、沖縄のアメリカ軍基地を再編強化するための本土復帰であるのは歴然としたものであった。世界やアジアの政治情勢を無視して、自分勝手に描いた妄想でしかない祖国復帰論が日米政府に通用するはずがなかった。

琉球大学自治会は、沖縄の施政権返還は日本政府とアメリカ政府の共謀によって沖縄のアメリカ軍基地を強化維持するのが目的であることを世間にアピールするために日の丸と星条旗を交錯させて燃やし続けていた。私はその行為は理解できたし賛同もしていた。しかし、県民大会の議事進行を邪魔し、演壇を占拠して日の丸と星条旗を燃やすのは横暴な行為だ。許されることではない。あのような横暴なことをやるから一般学生は離れていくのだ。横暴で過激な行為は学生運動を衰退させてしまうだけである。
明日になれば、私が学科委員長だった頃と同じように、それぞれの学科委員長はそれぞれの学科集会を開き、県民大会の演壇で日の丸と星条旗を燃やした意義を学生たちに説明するだろう。しかし、県民大会の議事進行を中断させて、演壇を占拠したことに正当性があるかどうかという問題はなおざりにするだろうし、日の丸と星条旗を燃やしただけで、琉球大学自治会の主張が県民大会に集まった人たちに理解されたかどうかの問題もなおざりにしてしまうだろう。私は過激化していく学生運動にため息をついた。

自治会室から漏れてくる光が暗くなった。誰かが私の居る場所に近づいてきたためだ。照屋さんが来るには早いなと思いながら私は振り向いた。影の正体は女性ではなく男性であった。男性は明るい場所から木々が植わっているキャンパスのうす暗い場所に入ったために、私を見つけることができないようだった。
「マタヨシ」
男は私の名を呼んだ。声を聞いて男の正体が分かった。私の名を呼んだ男はMだった。

私がMと出会ったのは三年前だった。演劇クラブはフランスの作家ジャン・ジュネ作の「黒ん坊たち」を大学祭で上演することになったが、役者が不足していたのでクラブ員である仲里が彼と同じ電気学科の後輩であるMを連れてきた。Mは高校時代の先輩である仲里が役者をやってくれと頼むと、役者の経験はなかったのに承知したという。
Mの役は老いてもうろくした元将軍だった。元将軍は四六時中居眠りをしていて、たまに目が覚めると、意味不明の、「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」というセリフを吐いた。元将軍を演ずることになったMは読み合わせの時から全力で、「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」と叫び、セリフを言うたびに唾を飛ばした。読み合わせだから、大声を出す必要はないと注意すると、「はい」と頷いたが、Mの叫びは直らなかった。Mが唾を吐いて叫ぶたびに、私たちは大笑いしたものだ。Mはくそ真面目で不器用な男だった。
夏休みに、演劇クラブは伊平屋島で合宿をすることになった。
演劇クラブ室で酒宴を開いている時に、男子寮の裏にある円鑑池で、夜になると「モー、モー」と牛のように鳴く正体不明の動物がいる話になった時、伊礼があれは食用ガエルであると教えた。私がなんとかして食用ガエルを捕まえて食べたいものだと言うと、伊平屋島出身の伊礼は、伊平屋島の田んぼには食用かえるがたくさん棲んでいて、簡単に捕まえることができると言った。それに、伊平屋島には野生のヤギもいて、ヤギを捕まえて食することもできると言った。それじゃあ恒例の演劇クラブの夏休み合宿は伊平屋島にしようということになった。オブザーバーであるMも伊平屋島の合宿に参加した。
伊平屋島に到着し、わくわくしながら田んぼに行くと、稲刈り後の田んぼは干上がり、食用ガエルはいなかった。私たちはがっかりした。どうしても食用ガエルが食べたい私たちは、合宿している小学校の教室の裏の小さな池に棲んでいる食用ガエルを捕まえて食べた。
伊平屋島の裏海岸には年中涸れることのない水溜りのある不思議な岩があるといい、伊礼は岩に私たちを案内した。岩に時々ヤギがやってきて水を飲むと伊礼は話した。ヤギは水を飲まないはずだと私が言うと、伊礼は、いやヤギは水を飲むと言い張った。私と伊礼は言い争った。ささいなことでもどちらが正しいかを真剣に言い争うのが私たちの青春だった。
私たちは岩から離れ、合宿している小学校に向かって砂浜を歩いた。すると浜を歩いている野生のヤギを見つけた。私はヤギを捕まえようと追いかけた。ヤギは崖の方に逃げた。私がなおも追いかけるとヤギは崖を登り始めた。私はしめたと思った。崖登りなら人間の方が早いはずである。ヤギを追って私は崖を登った。ところが崖登りは私よりも数倍ヤギの方が上手だった。ヤギは時々立ち止まって私を振り向きながらゆうゆうと崖を登ると野原に去って行った。見物していた演劇クラブの仲間は大笑いした。
「食用ガエルは田んぼにいないし、ヤギを捕まえることはできないし、伊礼はうそつきだ」
と私が伊礼を責めると、伊礼はヤギを絶対捕まえてみせると意地を張った。伊礼はヤギを捕まえる相棒にMを指名した。Mは素直に伊礼の指名に従った。
「お前たちは先に学校に帰れ。俺とMでヤギを捕まえるから」
と伊礼は言った。
日が暮れて、辺りが闇に覆われた頃、伊礼とMは内臓と首のない子ヤギを実家から借りた自転車の前に括り付けて帰ってきた。女性たちは悲鳴を上げた。男たちは酒を飲みながらヤギ肉を食した。
浜辺の貝を食したり、魚を釣ったり、島のあちらこちらを冒険したり、ヘビが寝床に侵入して大騒ぎになったり、私たち若者は演劇の練習はそっちのけで伊平屋島の夏を楽しんだ。夏休みが明けて暫くすると、「黒ん坊たち」の練習は頓挫し、Mは演劇クラブ室に来なくなった。
三年次になった時に、Mと私は学科委員長になり、学生運動の場で顔を合わせるようになった。しかし、Mは無口であり顔を合わせると黙礼をするくらいで、私とMが親しく話をすることはなかった。私が学科委員長を辞めてからはMと顔を合わせることはほとんどなくなった。先刻、私が自治会室に入った時、Mは自治会室に居た。久しぶりに会った私とMは黙礼をしただけで、言葉は交わさなかった。そのMがなぜ私に会おうとしているのか。
革靴を失って憂鬱な私はMと話す気がなく黙っていた。闇の中の私を見つけることができないMが、私を探すのをあきらめて去って行くのを期待していたが、
「マタヨシ」
と、Mは再び私の名を呼んだ。私は仕方なく、「ああ」と、私の居場所を知らせる声を発した。Mは私の声を聞き、私の居る場所に近づいてきた。私は自治会室の明かりを背にして近づいてきたMを黙って見ていた。Mは私の側に立つと、
「元気か」
と言った。
「ああ」
私は生返事をした。Mは、
「ちょっといいか」
と言った。断りたかったが、私は、
「ああ」
と答えた。Mは私の側に座った。
「マタヨシはまだ演劇をやっているのか」
とMは訊いた。Mの質問に私はむっとした。
私が入学した年の四月に、演劇クラブはベケットの「勝負の終わり」を上演し、その年の秋の大学祭に「闘う男」を上演した。しかし、リーダーであった全次が大学を中退すると、演出のできる学生がいないために翌年には「黒ん坊たち」が練習の途中で頓挫し、その次の年も頓挫した。演劇クラブは三年間も上演しない状態が続いていた。
このままだと演劇クラブは廃部になりクラブ室を明け渡さなくてはならない恐れがあった。私は歴史のある演劇クラブを廃部にした人間にはなりたくなかった。部員が私を含めて四人だけになってしまった状況で、私は三人だけ登場する「いちにち」という戯曲を書き上げ、役者の経験がない新人部員の三人を一から鍛えながら練習を続けていた。三人の中の一人でも退部すれば上演はできない。上演に辿りつけるかどうか不安を抱えながら私は演劇クラブを運営していた。
私の苦しい状況を知らない無神経なMの質問にむっとした私は、
「ああ」
と、ぶっきらぼうに答えた。
「そうか」
と言ったMに、私はソッポを向いた。
私の側に座ったMは、「そうか」と言った後、次の言葉がなかなか出なかった。私はMと話す気はなかったし、話す材料もなかったので黙っていた。Mは黙り、私も黙っていた。暫くして、
「シゲはどうしているか」と言った。
シゲとは私たちを伊平屋島に案内し、Mと子ヤギを捕まえた伊礼のことである。彼は私と同じ国文学科の学生で私より一期先輩だった。ジャン・ジュネの「黒ん坊たち」を持ち込んだのが伊礼であったが、伊礼はすでに中退していた。
「中退したよ」
「そうか、中退したのか。・・・・ケンはどうした。ケンは卒業したのか」
ケンとは新城のことである。彼は私より二年先輩で「勝負の終わり」でハムを演じた学生だった。彼は演出の能力がなく、二年前にアラバールの不条理劇「ファンドとリス」の上演を目指したが頓挫した。
「卒業した」
「就職したのか」
「ああ」
「なんの仕事をしているのか」
「黒真珠のセールスをしている」
「そうか」
と言った後、Mは黙った。
Mは演劇クラブの近況を聞くために私の所に来たのではないだろう。Mがなにを私と話したいか知らないが、私は、演劇の話にしろ、政治の話にしろ、Mと話し合う気にはならなかった。
「みんな、もう居ないか」
Mはしみじみと言った。
Mが演劇クラブに居た頃の学生は、私以外は誰も居なかった。伊礼、比嘉、高安、奈江は中退して演劇クラブを去った。新城、仲里、垣花、喜舎場、美千代、敦子は卒業して演劇クラブを去った。私だけが中退も卒業もしないでまだ演劇クラブに残っていた。Mは演劇クラブを懐かしんでいたが、私にとって演劇クラブは孤独で厳しい闘いを強いられている現実であった。演劇クラブを懐かしんでいるMに私は苛ついた。
Mと話したくない私は黙っていたが、
「そうか。みんな居なくなったか。居なくなって当たり前だな」
と、Mは独り言を言った。そして、黙った。私も黙っていた。
暫くして、Mが、
「マタヨシは家族闘争をやったか」
と言った。唐突な話題の転換であった。Mが私のところにやって来た目的は「家族闘争」について話し合いたかったからだと私は知った。しかし、私にとって、「家族闘争」は時代遅れの話題でしかなかったから拍子抜けした。私は思わず、
「はあ」
と首を傾げた。

「家族闘争」というのは、家族に学生運動をやっていることを打ち明け、家族と話し合い、自分たちがやっている学生運動を家族に理解させ、家族に学生運動を応援させる運動のことであった。
一九六六年にフランスのストラスブール大学で民主化要求の学生運動が始まり、それが一九六八年にはソルボンヌ大学の学生の民主化運動へと発展し、その年の五月二十一日にはパリで学生と労働者がゼネストを行った。そして、労働者の団結権や学生による自治権、教育制度の民主化を大幅に拡大することに成功した。それをフランスの五月革命と呼んだ。フランスの五月革命は学生が原動力となった革命として世界中に有名になった。
大学の民主化を目指して闘ったフランスの学生たちは、自分たちの運動の意義を理解させるために家族と話し合った。学生の民主化運動を理解した家族は学生を応援し、家族を巻き込んだ民主化運動は次第に学生運動から大衆運動へと発展していった。
五月革命が成功した原因のひとつに学生たちが家族の説得に成功したことをあげ、それを家族闘争と呼び、学生運動のリーダーたちは私たちに家族闘争をやるように指示したのだった。
フランスの五月革命のように大学の自治や民主化を目指した運動であったなら、私は家族の理解を得るために喜んで話していただろう。しかし、琉球大学の学生運動は五月革命のような民主化運動とは性格が異なっていた。
琉球大学の学生運動はアメリカ軍事基地撤去、ベトナム戦争反対などを掲げていたが、反戦平和運動の域に止まるものではなかった。沖縄最大の大衆運動である祖国復帰運動を批判し、民主主義国家であるアメリカを帝国主義呼ばわりし、ソ連をスターリン官僚主義と批判して反帝国主義反スターリン主義を掲げた学生運動であった。本土の学生運動と系列化していった琉球大学の学生運動は急速に過激になっていった。ヘルメットを被ってジクザグデモをやり、ゲバ棒で機動隊と衝突したり、火炎瓶を投げたりした。
琉球大学の学生運動を、古い沖縄の因習を信じている私の親が理解し、納得し、応援するのは不可能であった。民主主義社会を目指した運動であったなら私は熱心に両親を説得していたはずである。しかし、民主主義国家アメリカを帝国主義呼ばわりし、将来のプロレタリア革命を目指している琉球大学の学生運動を家族に理解させるのは不可能であった。上からの指示であったが、私は「家族闘争」はやらないことに決めた。
それに、大統領や国会議員だけでなく州知事や地方の首長、議員までが市民の選挙で選ばれるアメリカや日本の民主主義国家で労働者階級が政治の実権を握るために暴力革命を起こすというのはむしろ社会が後退するのではないかという疑問が私にはあった。国民の代表である大統領や議員が国民の一部である労働者階級の暴力によって滅ぼされるのはおかしい。プロレタリア革命の後は国民の選挙が行われないとすれば民主主義国家での暴力革命は目指してはいけないのではないかと私は疑問に思っていた。民主主義とプロレタリア革命の狭間で私自身が悩める若者であったから家族闘争どころではなかった。
学生運動のリーダーたちは「親の理解を得ない限り、真の闘いとは言えない」と、フランスの五月革命を例にして、「家族闘争」することを指示したが、多くの学生は親の理解は得られないことを予想していたから、私と同じように「家族闘争」を避けていた。リーダーたちの指示を素直に受けて、「家族闘争」をやった殊勝な学生も居たが、彼らの多くは、親に説得されて学生運動から離れたり、親に勘当されたり、親子喧嘩になって家出をしたり、強引に休学をさせられて大学に来なくなったりした。
私は「家族闘争」をしないということで私なりに「家族闘争」を処理したのだが、私とMが「家族闘争」をやるように指示されたのは二年前のことであった。激しく変動する時代を生きている若者にとって二年前ははるか昔である。私にとって「家族闘争」は時代遅れの四字熟語であった。「マタヨシは家族闘争をやったか」という時代遅れのMの質問に、私はあきれて質問に答える気もなく、黙っていた。
・・・Mよ。俺は与儀公園で革靴を失って苛々しているし、久しぶりに参加した県民大会で肉体はひどく疲れている。お前と古臭い「家族闘争」の話なんかしたくないから、さっさとここから立ち去ってくれ。俺を独りにしてくれ・・・
というのが、その時の私の正直な気持ちだった。私の沈黙に、勘のいい人間なら、私の気持ちを察知して、その場から去っていっただろう。しかし、Mは勘のいい人間ではなかった。Mは私の側に座り続けた。
私がなにも言わないのでMは困惑したようだったが、質問の内容が唐突なので、私が返事をするのに苦労していると思ったのか、
「マタヨシの親はなんの仕事をしているんだ」
と、私への質問の内容を変えてきた。私は予想していなかった質問に戸惑い、
「え」
と言い、Mを見た。
Mは私をではなく正面の闇を見つめていた。Mはまるで正面の暗闇と話しているようだった。Mは目を合わせるのが苦手で、話すときは相手の顔を避けてあらぬ方向を見ながら話す癖があったことを思い出した。
私は、親の話なんかやりたくないという意を込めて、
「農民だ」
と、ぶっきらぼうに言った。
「そうか、農民か」
と言った後に、Mは暫く黙っていた。Mはじっと動かないで闇を見つめていたが、
「僕の親はコザ市のゴヤで洋服店をやっている」
と、自分の親の仕事のことを話した。
「客の多くは嘉手納空軍基地のアメリカ人だ」
と言い、ため息をついた。
コザ市はアメリカ軍人や彼らの家族を客としている商売が多く、アメリカ人を客にして繁盛していた。Mの親もそのひとりだった。
Mの話に興味のない私は黙っていた。私の言葉を待っているMだったが、私がなにも言わないので、暫くすると、
「マタヨシは妹が居るか」
と訊いた。え、それで親の話は終わりかよ、と私は苦笑し、Mが話下手だったことを思い出した。演劇クラブ室での会話や酒宴の場での会話でMから話すことはなかった。質問されたら質問にだけ答える一問一答の対話しかMはやらなかった。Mとの対話はすぐに途絶えるのが普通だった。
Mの質問に、私は、
「居る」
と、一言の返事をした。Mは、
「そうか」
と言い、暫く黙っていたが、
「僕も妹がいる」
と闇を見つめながら言った。Mの声は暗く重かった。
「僕の妹は専門学校に通っている。来年は卒業だ」
Mは言葉を止めた。そして、
「しかし」
と言った後、ため息をつき、それから、
「僕が学生運動をしていることが世間に知れたら、妹の就職に悪い影響を与えるかもしれない」
と、また、ため息をつき、
「マタヨシの妹は仕事をしているのか」
と訊いた。
「している」
「どんな仕事をしているのか」
「さあ、知らない」
「知らないのか」
Mは驚いて訊き返した。私の妹はある建設会社の事務員をしていたが、妹の話をしたくない私は、「さあ、知らない」と答えた。
「弟は居るのか」
と、Mは訊いた。
「居る」
と私が答えると、
「そうか、弟も居るのか」
と言い、弟が居るとも居ないとも言わないでMは黙った。暫くして、
「マタヨシの親はマタヨシが学生運動やっているのを知っているのか」
弟ではなく親の話に変わった。
「いや、知らない」
私が言うと、
「そうか」
と言い、Mは少しの間黙ってから、
「マタヨシの親は保守系なのかそれとも革新系なのか」
と、また、質問の内容を変えた。
琉球政府の主席公選の時、貧しい私の父母は区の有力者に恩納村にある山田温泉に招待された。母は初めて行った山田温泉に喜び、有力者に感謝した。そして、有力者の指示に従い、保守系の候補者に投票した。つまり、私の父母は買収されたのだ。しかし、私の父母には買収されたという自覚はなかったし、罪悪感もなかった。私の父母は保守か革新かではなく、昔からのしきたり通りに地域の有力者に従うだけの人間であった。有力者が保守系だったから私の父母も保守系ということになる。
「保守系だ」
と、私が言うと、
「そうか、保守系か。僕の父も保守系だ」
と言った。Mは暫く黙っていたが、
「マタヨシは親に学生運動をやっていることを話すつもりはないのか」
と訊いた。
私は学生運動のことは一切親には話さないと決めていたし話さなかった。それに今は学生運動から離れているのだから親に話す必要も隠す必要もなかった。私は一年近く自治会室に行ったことはなかったし、学生集会に参加したこともなかった。だから私が学生運動から離れていることに普通なら気付くはずである。しかし、Mは私が学生運動にまだ参加していると思っているようだった。学生運動から離れていることをMに話せば、その理由を説明しなければならないだろう。それもMが納得するように説明しなければならない。それは面倒くさいので私は学生運動から離れていることをMに話さなかった。私は苦笑しながら、
「話すつもりはない」
と言うと、
「どうして話さないんだ」
と、Mは真面目な顔をして言った。私はMにあきれた。
「俺たちの政治思想を話しても、親が理解できるはずがない」
少し間があり、
「そうだな。そうかも知れないな」
とMは言い、ため息をついた。
Mが「家族闘争」に悩んでいることは分かったが、私はMに同情はしなかったし、家族闘争を「頑張れ」と励ます気にもならなかった。私とMは同い年であり、二人は五年次になっていた。学生としては古参である。古参であるMが「家族闘争」に悩んでいるのはむしろ滑稽に思えた。Mは真面目であり、真剣に「家族闘争」をやろうとして悩んでいるかも知れないが、「家族闘争」はすでにそれぞれの学生がそれぞれのやり方で「処理」しているはずのものであった。Mは学科委員長をやった経験もあるのだから、「家族闘争」はすでに「処理」し、解決しているのが当然である。
「マタヨシはこれからも家族闘争をやらない積もりなのか」
とMは訊いた。
「親にどんな風に話せばいいのだ」
学生運動のことを親に理解させるのは不可能であると言う意味で私は言った積もりだったが、Mは勘違いして、
「そうなんだよな。どのように話せばいいのか、それが非常に難しいんだよな」
と言い、
「親にどのように説明すればいいか。分からなくて困っている」
と深いため息をついた。
親に理解させる可能性がゼロではないと信じているMに私は苦笑した。「家族闘争」の可能性を信じているMは、真面目で純真であると言えば聞こえはいいが、親たちが沖縄の古い因習に縛られていることを認識する能力がMには欠けているのだ。私は、「家族闘争なんかできるはずがない。止めろ」とMに言いたかったが、「家族闘争」に真剣に悩んでいるMが私の忠告を素直に聞き入れるはずはない。それに私は学生運動から離れた身である。いまさら「家族闘争」という重たい問題に首を突っ込む気持ちがなかったから、私は忠告するのを止めて黙っていた。
Mは体躯がよく姿勢もよかった。座っているときも背筋をまっすぐに伸ばしていた。演劇クラブ室で車座になって酒を飲んで酔ったときも、Mは背筋をピンと伸ばしていたので、「Mはまるで軍人みたいだ」と揶揄したことがあった。Mは三年前と同じように背筋を伸ばして、真正面の闇を見つめ、身じろぎもしないで座っていた。暫くしてMは、
「マタヨシは兄さんが居るか」
と訊いた。興味のない質問だったが、
「いや、居ない」
と答えた。Mは暫く黙ってから、
「マタヨシは長男か」
と訊いた。
「ああ」
と私が答えると、Mは、
「そうか。長男か」
と言い、
「僕も長男だ」
と言った。そして、
「学生運動をしていることを父に話すと、父は確実に怒るだろう。頑固な父だから、長男である僕でも勘当するかもしれない」
と言って、ため息をついた。
「勘当されるのか」
私は訊き返した。
「されるだろうな」
と言ったMの声は沈んでいた。
 私は親に勘当されたかった。しかし、長男である私を親が勘当することはあり得ないことだった。
家に束縛されないで自由に生きたい私は、「弟は俺よりしっかりしているから、弟が家を継いだほうがいい。弟が家を継ぐなら俺は家の財産は一銭ももらわなくていい」と母に話したことがあった。母は私の話にすごくショックを受け、嘆き悲しんだ。母を嘆き悲しませてまで自由になる勇気のない私は主張を引っ込めざるをえなかった。
大学を休学して、一年くらい東京に住んでみたいと私が言った時も、母は私が東京に行ったら一生帰ってこないという被害妄想に陥り、姉に私の東京行きを引き止めるように頼んだ。九歳年上の姉に、長男としての義務と責任についてこんこんと説教された私は東京行きを断念した。
長男が仏壇と家を継ぎ、親の面倒を看るのは絶対に守らなければならないと信じている母であったから、私が学生運動をやっていると告白しても母が私を勘当することは絶対にあり得ないことだった。私を勘当するのではなく、私が就職できるだろうかと心配し、御先祖様に申しわけないとか、世間に白い目で見られる弟や妹の将来が心配であるとか、村の人や親戚に恥ずかしくて顔を合わすことができないなどと嘆き悲しみ、私に学生運動を止めてくれと必死に頼んだだろう。母は精神的にまいって病気になったかもしれない。だから、私は母に学生運動をやっていると告白することはできなかった。もし、私の母が気丈な人間で、Mの父のように長男であろうと勘当するのなら、私は学生運動をやっていることを喜んで母に告白していただろう。
私にとって勘当されるということは歓迎することであったから、
「勘当されればいいじゃないか。親に頼らなくても俺たちは生きていける」
とMに言った。するとMは困惑し、
「いや、それはまずい」
と言った。
「なにがまずいんだ。勘当されれば、親の束縛から解放されて、自由に生きることができていいじゃないのか」
と私が言うと、
「いや、僕は長男だし、妹が居るし・・・」
とMは言葉を濁した。
「そんなのは関係ないよ」
と、私が言うと、
「いや、僕は長男だから将来は家を継いで親の面倒を看なければならない。それに、兄として妹のことも考えてあげないとな」
Mは長男しての義務を認める言い方をした。
「家か。親の面倒か」
私は、Mに失望しながら呟いた。
私が長男の呪縛から解放されたくても解放されないジレンマに悩んでいるのに、Mは長男の呪縛を自分から受け入れていた。私は学生運動をしている学生は沖縄の古い因習を批判し、家督相続思想を否定していると思っていた。しかし、現実は違っていた。私と同じ世代であり、私と同じ長男であり、私と同じ学生運動をしているMが、長男の家督相続思想を受け入れていた。隣に座っているMが沖縄の古い因習を受け入れているのを知り、私は滅入っていった。
「親を説得する方法はないのかな」
とMが言った時に、私はカーっと頭にきて、
「ない」
と、激しい口調で言った。Mは私の突き放した言葉にショックを受けたようだった。Mは黙った。私も黙った。二人の間に沈黙が続いた。頭上のガジュマルの枝に風が吹いている音が両耳に聞こえ、Mの重いため息が左の耳に聞こえた。
 
演劇上演ができるかどうかの不安、卒業ができるかどうかの不安、親と絶縁して自由に生きる勇気のないジレンマ、社会に出たらどのように生きていけばいいのかなどなど、私も深刻な悩みを抱えている若者の一人であった。Mが学生運動と家族愛の板ばさみに深刻に悩んでいるのを理解はしても、私は私の悩みでいっぱいいっぱいであり、自分の悩みを横に置いて、Mの悩みの相談相手になることは私には無理だった。 

Mは、私と話す言葉を探しているようだった。しかし、見つけることができないまま、沈黙の時間が二人の間に流れていった。キャンパスに、急に突風が吹いて、木々が騒ぎ出し、頭上のガジュマルの枝葉は激しく揺れた。暫くして風が止み、キャンパスが静かになった時、
「マタヨシさん」
と、私の名を呼ぶ声がした。その声は、照屋さんが帰ってきたら、私のことを照屋さんに伝えてくれるように頼んだ学生の声だった。
「こっちだ」
私は返事をした。
「照屋さんが帰ってきた。自治会室に来てほしいって」
と、学生は言った。
「そうか、分かった」
私は立ち上がり、自治会室に向かった。Mも私の後ろからついてきた。
 照屋さんは数人の学生運動家と深刻な顔で話し合っていたが、私が自治会室に入ると、私を振り向いた。
「俺の革靴は見つかったのか」
「ごめん。見つからなかったわ」
革靴が見つからなかったと聞いて私はがっかりした。照屋さんは足元に置いてあった古い運動靴を取り、
「この靴を履いて」
と言った。
「誰の靴なのか」
と私が訊くと、
「知らない。自治会室にあったわ」
と言った。照屋さんの持っている運動靴は萎びていて臭そうだった。他人の汚れた靴を履くのは気持ち悪いし、足がむず痒くなりそうだ。私は裸足で帰ることにした。
「いいよ」
と私が言うと、照屋さんは、
「裸足はいけないわ」
と言い、自治会室の奥の方からゴム草履を探してきて、
「これを履いて」
とゴム草履を私に渡した。私はゴム草履を履き、自治会室を出た。
「マタヨシ」
背後からMの声が聞こえた。振り返ると、Mが近づいてきた。
「寮に帰るのか」
Mは訊いた。私は男子寮に住んでいなかった。なぜ、Mが「寮に帰るのか」と言ったのか理解できなかった。
「俺は寮には住んでいないよ」
と私は言った。
「住んでいないのか」
「ああ」
「そうなのか」
Mはがっかりした様子だった。
「寮に行って話をしないか」
Mは私を誘った。
間借り部屋に帰り、ラーメンを食べる以外に予定はなかったが、Mと話すということは、Mが抱えている「家族闘争」について話すということである。私はMと「家族闘争」のことを話し合う気にならなかったから、
「いや。用事があるから」
と嘘をついて断った。
「そうか」
Mは残念そうであった。話を続けたそうにしているMに、
「じゃな」
と言って、私はMから離れた。
構内の中央通りを横切り、図書館の左端にある小さな階段に向かって歩きながら振り向くと、自治会室から漏れている蛍光灯の白い光をバックにして、Mは名残り惜しそうに立っていた。

 赤平町の間借り部屋に帰った私はラーメンを食べ、隣の学生と雑談をした後にシャワーを浴びようと男子寮に行った。私は風呂代を節約するために男子寮のシャワー室を利用していた。私が男子寮に住んでいるとMが勘違いしたのはシャワー室を利用している私を時々見かけたからかもしれない。
ハイビスカスの垣根を曲がって男子寮に入ろうとした私の足が止まった。玄関に居る数人の学生の様子が変であったからだ。寮内ではみんな軽装であるのに彼らの服装はデモをする時のような厚着であったし、あたりを見回しながら落ち着きがなく歩いていた。彼らは確実に寮生ではなかった。異様さに気づいた私は玄関を離れ、男子寮の裏に回った。裏から入ると見知っている学生がいたので彼から話を聞いた。彼は男子寮が襲撃されたといい、襲われた学生たちは大学構内に逃げたと話した。私は自治会室に急いで行った。
自治会室に集まっている学生たちはみんな恐怖で緊張していた。彼らの様子を見れば襲撃の激しさが想像できた。知り合いの学生が私を見ると、Mが重傷を負って病院に運ばれたと言った。M以外に早稲田大学から来た学生が負傷して病院に運ばれたらしい。Mが重傷であると聞いた私はMの様子を知りたかったのでそのまま大学構内に残った。

Mが死んだ。

夜明け前に病院から帰ってきた照屋さんがそう報告した。

私はMの死を全然予想していなかった。怪我の状態といつまで入院するのかを照屋さんが報告するのだろうと予想していた。しかし、私が全然想像できなかったMの死を照屋さんは報告した。私は頭が真っ白になった
「家族闘争」さえできない純朴なMが死ななければならない理由はどこにもないという妙な思いが私にはあり、Mの死が信じられなかった。しかし、Mは死んだ。すすり泣きがあちらこちらから聞こえてきた。
沖縄の激しい政治の季節に、琉球大学の学生であったがゆえに学生運動に走ったM。沖縄に生まれたがゆえに沖縄の古い因習を受け入れていたM。家族を愛していたがゆえに学生運動に参加していることを打ち明けることができないで深刻に悩んでいた純朴な若者M。
Mは、革命へ突き進もうとする学生運動に参加しながらも、古い沖縄の因習を受け入れている若者の一人であった。革命思想と古い因習を同時に内包していたM。そんな矛盾を抱えている一人の若者が革命とは関係のない争いで命を失った。
Mの死に、私は、怒りや悲しみではなく、体中がいいようのない虚無感に包まれ、「なぜ・・・なぜ・・・」と、答えを出すことができない自問を繰り返していた。

あの日から、もう、四十年が過ぎた。

トタン屋根の古い木造の演劇クラブ室で、
「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」
と、くそ真面目な顔で、口から唾を飛ばして叫んでいたMの顔を思い浮かべると、今でも、苦笑してしまう。
  
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2023年01月25日

共産党に強烈な爆弾投下「シン・日本共産党宣言」

電子書籍

内なる民主主義シリーズ

内なる民主主義1 350円  内なる民主主義2 350円  内なる民主主義3 350円
内なる民主主義4 350円  内なる民主主義5 350円  内なる民主主義6 350円
内なる民主主義7 350円  内なる民主主義8 350円  内なる民主主義9 350円
内なる民主主義10 350円  内なる民主主義11 350円  内なる民主主義12 350円
内なる民主主義13 350円  内なる民主主義14 350円  内なる民主主義15350円
内なる民主主義16  350円 内なる民主主義17 350円   内なる民主主義18 350円
内なる民主主義19 350円 内なる民主主義20 350円 内なる民主主義21 350円
内なる民主主義22 350円  内なる民主主義23 350円  内なる民主主義24 350円
内なる民主主義25 350円 内なる民主主義26 350円  内なる民主主義27 350円 
内なる民主主義28 350円

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共産党に強烈な爆弾投下「シン・日本共産党宣言」

共産党に強烈な爆弾が投下された。「シン・日本共産党宣言」である。著者は現役の共産党員の松竹伸幸である。松竹氏は党の安保外交部長を務めた人物である。
松阪市は共産党が党首公選をすることを要求している。

ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由を松竹伸幸氏は次のように述べている。
「日本の主要政党で党首公選が行われていないのは、共産党と公明党のみである。 約半世紀にわたり、共産党員として活動し、政策委員会で安保外交部長を務めたこともある私が、なぜ、党員による投票が可能な党首公選制を訴え、自ら立候補を宣言するのか? .日本共産党が党首公選を実施すれば日本の政治がマシになるからである」

 共産党は100年間党首公選をしていない。党首公選は共産党の禁句である。禁句である党首公選を党員である松竹氏は宣言したのである。それも党内で主張したのではなく、本を出版し外に向かって主張したのである。
 マスコミは共産党は党首公選をしないで20年も志位氏が党首であることを指摘したが、志位委員長は公正な選挙で選ばれたと主張してマスコミの指摘が間近っていると主張してきた。マスコミはそれ以上深く追及することはなかった。
 しかし、今回は共産党内部から党首公選がなかったことを告発したのである。ごまかしようがない告発である。それも本による告発である。共産党幹部は党首公選していないことを認めざるをなくなったのである。
 松竹氏は党首公選をしていないことを暴露すると同時に党首公選を要求し自分が首席公船に立候補をすることを宣言した。
 党首公選は共産党員に加えて共産党支持者が問題にしていくだろう。強烈な爆弾が投下されたのである。

 同著を執筆した背景について、松竹氏は「2つの国政選挙で共産党が後退した」ことへの危機感をあげている。2つの国政選挙の後退を見て、このままでは本当に共産党が取るに足らない勢力になりかねないと深刻に思ったという。後退した共産党を立て直すために松竹氏は、志位委員長のように自衛隊を否定的に考えるのではなく、政策の中にしっかり位置付けることを提案している。松竹氏は共産党内部で提案したが取り入れられなかった過去があるという。今度は共産党の内部ではなく外に向かって宣言したのだ。
松竹氏は、
「2つの国政選挙の後退を見て、このままでは本当に共産党が取るに足らない勢力になりかねないと考えた時に、この本を共産党の方たちに読んでもらって、党首公選で安保・自衛隊政策を堂々と議論し合うような党にならないとダメだ”ということを訴えたい」
と述べている。

 松竹氏に反論したのは機関紙「しんぶん赤旗」である。赤旗は「党規約に違反する」と述べ、現実的な安全保障政策への転換を求めたことについては、党が掲げる「日米安全保障条約廃棄」「自衛隊解消」に反すると松竹氏の主張を退けた。松竹氏に反論したのは赤旗であり、志位和夫委員長は赤旗に同調する考えを記者団に示しただけであった。
「あの論説に尽きている。赤旗にお任せし、書いていただいた」
志位氏は松竹氏の提案を、
「規約と綱領からの逸脱は明らか」
と断じた赤旗を高く評価しただけで、党首としての具体的な見解は口にせず、「論説に尽きている」と繰り返すだけであった。
赤旗は編集局次長名の記事で、「党の内部問題は、党内で解決するという党の規約を踏み破るものだ」「(党首公選制は組織原則である『民主集中制』と)相いれない」などと松竹氏を批判した。
松竹氏が「専守防衛」を党の基本政策に位置付けるよう主張していることについて、赤旗は「自衛隊合憲論を党の『基本政策』に位置づけよという要求に他ならない」と反論した。今後、松竹氏は赤旗に反論するだろう。今まで内部で押さえつけられていた松竹氏と赤旗の論争が公の場で展開される。共産党では初めてのことである。強烈な爆弾である。

  
Posted by ヒジャイ at 13:15Comments(0)

2022年10月20日

2017年11月13日

短編小説・哀れな完全犯罪

短編小説
哀れな完全犯罪
刑務官は前触れもなくぼくの部屋の前に立っていた。刑務官の無表情な顔を見た瞬間にぼくの体に氷のような冷たい電気が走りぼくは動けなくなった。ぼくの心臓の鼓動が早くなっていた。刑務官はぼくの名前を呼んだ。刑務官の抑揚のない声はぼくの脳をゆらゆらさせぼくを失語症にした。何も言わないで立っているぼくを見つめながら刑務官は今からぼくを処刑すると言った。・・・やっぱり・・・・・。刑務官の発した声はぼくの回りの空気を氷のように冷たくした。・・・死、死、死・・・。ぼくは動きたくない。永遠にここを動きたくない。刑務官は暫くの間ぼくを見つめていたが淡々とした動きで棒のように立っているぼくを廊下に連れ出した。刑務官に両脇を抱えられているぼくはぼくの死に向かってコンクリートの廊下を歩き始めた。ぼくは本当に首を吊るされて死ぬのだろうか。ぼくの体はぶるぶる震えている。ぼくの体は死への恐怖を感じているのだろうか。ぼくの目からは涙が流れている。なぜぼくの目から涙が流れているのだろう。ぼくの体はぼくの死を悲しんで泣いているのだろうか。わからない。わけもなく絶叫したい。しかし、声が出ない。ぼくの体は淡々と歩いている刑務官に連れられて確実に一歩一歩絞首台に近づいていく。

 亜衣子は、「別れましょう。」と言った。予期していなかった亜衣子の言葉だった。亜衣子はぼくを嫌いになったと言い、もうぼくとは二度と会いたくないと言った。そして、亜衣子の言葉を信じることができないと言ったぼくに、「今後私に付きまとうことは絶対にしないでね。」と突き放すように言い、「絶対に私に電話をしないで。」と冷たく言った。そしてくぎを刺すように、「手紙も絶対送らないで。」と言い、もしぼくが手紙を送ったら手紙を証拠にして、「ストーカーとして警察に訴えるから。」と亜衣子は言った。愛する亜衣子の突然の心変わりにぼくはショックを浮け呆然と亜衣子を見ていた。亜衣子は「さよなら。」と言うとぼくに脊を向けて去っていった。
 希望する銀行に入社して三年。一年前から亜衣子と愛しあうようになりぼくの人生は順調に進んでいた。そろそろ亜衣子にプロポーズをする時期に来ているとぼくは思っていた。それなのに突然の亜衣子の心変わり。どうして亜衣子は心変わりしたのか。どうして亜衣子はぼくを嫌いになったのか。ぼくにはその理由がどうしても分からなかった。亜衣子に去られたぼくは絶望の日々を過ごした。
亜衣子はぼくにつきまとうなと言った。だからぼくは亜衣子と会うことができない。亜衣子は電話をするなとぼくに言った。だからぼくは亜衣子に電話をすることができない。亜衣子は手紙を送るなと言った。だからぼくは亜衣子に手紙を送ることができない。亜衣子に会うことも電話することも手紙を書くこともできないほくは絶望と悲しみの涙を流し続けた。亜衣子に去られた辛い地獄のような日々。ぼくは生きる希望を失い不幸のどん底を這いずり回った。そして絶望の日々の中でぼくの亜衣子への恋慕は日に日に増していった。愛しい愛しい亜衣子。亜衣子に会いたい亜衣子と話したい亜衣子の柔らかな肉体と交じり合いたい。しかしぼくは亜衣子に会うことも電話することも手紙を書くこともできない。独り悩み独り苦しみ独り悶える日々の中でぼくの亜衣子への恋慕は日に日に増していった。
亜衣子が急に心変わりしたのは新しい男ができたからに違いない。きっとそうだ。ああ、亜衣子が他の男と愛しあうことなんてぼくには耐え切れない。亜衣子の白い肉体がベッドの上で男と絡み合っているのを想像するとぼくの心は張り裂けそうになった。ぼくは次第に嫉妬の蟻地獄に堕ちていった。一日中亜衣子のことが頭から離れなくなった。亜衣子の唇、目、胸、腕、腹、太ももが次々と脳裏に浮かんだ。仕事をしていても食事をしていても同僚と話していても四六時中ぼくの脳裏はぼくが亜衣子の柔らかな肉体と絡んでいる夢想と亜衣子が他の男と愛し合っている妄想を繰り返していた。部屋で独りになると亜衣子がいない虚しさにぼくは泣き、亜衣子が男と愛し合っている姿を妄想して激しく嫉妬した。ぼくの失恋はとても深く、絶望と嫉妬と恋慕の日々に悩み苦しむぼくの心は次第におかしくなっていった。絶望と嫉妬と恋慕の三重苦の日々のぼくはこの苦しみから解放されるには亜衣子がこの世から居なくなる以外にはないと考えるようになった。ぼくの方に帰らない亜衣子ならいっそのこと死んだ方がいいとぼくは思うようになった。亜衣子が死ねば亜衣子が他の男と愛し合っている姿を妄想して嫉妬に苦しむことからぼくは解放される。だから亜衣子は死んだ方がいい。それに亜衣子が死ねばぼくの想像の世界で亜衣子はぼくだけの亜衣子になれる。絶望と嫉妬と恋慕に苦しんでいたぼくは亜衣子の死を望むようになった。
亜衣子が死ぬ。それはぼくが亜衣子を殺すことでしか実現はできない。ぼくが亜衣子を殺す。それは恐ろしいことだ。気の弱いぼくが亜衣子を殺すことを思いつくなんて信じられないことであった。ぼくはその考えを打ち消した。しかし、絶望と嫉妬と恋慕に苦しんでいるぼくの脳裏には沼の泡のようにその考えが何度も何度も浮かんできた。ぼくは迷った挙句にぼくの苦しみを解放するには亜衣子を殺すしかないと考えるようになった。
亜衣子を殺すことは亜衣子が死ぬということではない。亜衣子が永遠にぼくと一緒に生きるということである・・・とぼくはぼくに言い聞かせた。ぼくが亜衣子を殺すのは犯罪ではない。純粋な愛の行為である・・・とぼくはぼくを説得した。ぼくはぼくを何度も説得してついに亜衣子を殺す決心をした。ぼくの行為は犯罪行為ではない。ぼくの行為は純粋な愛の行為だ。だからぼくが警察に逮捕される理由がない。だからぼくの愛の行為は完全犯罪でなければならない。亜衣子を完全犯罪で殺すことを決心したぼくはぼくの全知能を集中して完全犯罪の方法を思案した。完全犯罪の方法を思案しているぼくは亜衣子の生死を掌中に握っている優越感を持つようになり亜衣子の支配者になっている気持ちになった。そしていつの間にか亜衣子へのコンプレックスや嫉妬心がなくなっていた。
ぼくは亜衣子の行動パターンを詳しく調べた。予想していた通り亜衣子には新しい男がいた。しかしぼくは嫉妬するよりもますます完全犯罪への情熱が高まり完全犯罪の方法の研究にぼくは没頭した。ついにその日が来た。
 その日は月末の土曜日だった。亜衣子は仕事がありぼくは休日だった。帰宅途中の亜衣子をぼくはナイフで襲った。亜衣子をナイフで数回刺したぼくは走って逃げた。数百メートルを一目散に走った。それから路地裏に隠してあった自転車に乗って逃げた。パチンコ店の駐車場に到着すると駐車場に置いてあるM市で盗んだオートバイに乗った。車の通れない山道をオートバイで走った。山の反対側のM市に入りM市のパチンコ店にぼくは向かった。パチンコ店の駐車場の近くでオートバイを捨て、駐車場にある車に乗るとぼくは駐車場を出た。それからコンビニに向かった。コンビニで弁当を買うぼくの姿は防犯カメラに映っただろう。亜衣子を刺したぼくが車でこのコンビニにこの時間に来るのは不可能だ。これでアリバイ工作は成立だ。
完全なるアリバイ工作。完全犯罪は実現した。しかしぼくには完全犯罪を遂行した満足感はなかった。ぼくは愛する人を殺してしまったのだ。ぼくはなんてひどい人間なんだ。ぼくは最低の人間だ。ぼくは亜衣子を殺した瞬間から後悔が始まっていた。逃げるぼくの目から涙があふれ出て止まらなかった。ぼくの心は乱れぼくは泣きながら車を走らせた。

 ぼくが亜衣子を殺した同じ日にM市の崎浜家で祖父母と孫三人が惨殺されるという殺人強盗事件が起きた。ぼくの知らない所で起きた惨忍な殺人事件だ。ああ、なぜ偶然はぼくに残酷なのだ。ぼくの完全犯罪を嘲笑するように崎浜家殺人強盗事件は起こった。ぼくの計画は完璧だった。絶対に警察は亜衣子殺しの犯人であるぼくを逮捕することはできない。ところがぼくは崎浜家殺人強盗事件で非常線を張っていた警官に車を停められて訊問された。愛する亜衣子を刺し殺したぼくは後悔と悲しみで心は乱れていた。そんなぼくが警察の尋問にすらすらと答えることができるはずがない。自失忘然のぼくは警官の訊問にしどろもどろになり意味不明の返事をした。警官はそんなぼくを不審に思った。警官はぼくに車のトランクを開けるように指示した。開いたトランクの中にはリュックサックが入っていた。リュックサックの中には帽子、マフラー、サングラス、作業服に混じって血のりのついたナイフが入っていた。最愛の人を刺したナイフだ。ぼくの最愛の人の血がこびりついたナイフ。ぼくの聖なるナイフ。リュックサックのナイフは崎浜家の人間を刺したナイフではなかった。そのナイフは愛する人を刺した悲しみのナイフだった。ナイフについていた血は最愛なる人の聖なる血であった。崎浜家の人間の血ではなかった。しかし、愛する人を殺したショックのぼくにナイフに付いた血は崎浜家の人間の血ではないと説明することができるはずがない。警官がぼくを訊問してもぼくはなにも答えることはできなかった。警官はぼくを崎浜家殺人事件の容疑者として逮捕した。ああ、運の悪いぼく。
ぼくは生前の崎浜誠太郎という老人を見たことがない。崎浜梅子も崎浜俊一も崎浜麗華も沙耶華も生きている時の姿を見たことは一度もない。ぼくは崎浜家に行ったことはないし崎浜家がどこにあるのかも知らない。本当だ。ぼくが初めて崎浜家の五人の人間を見たのは写真だ。刑事はぼくに五人の死んだ姿の写真を見せた。胸がざっくりとナイフで裂かれて胸から腹の辺りが血に染まっている崎浜誠太郎の写真。目を見開き口から舌を出している崎浜梅子の写真。崎浜俊一の血だらけの写真。崎浜麗華と沙耶華の首が鋭いナイフで切り裂かれて血が床一面に広がっている写真。刑事は何枚もの惨殺死体の写真をぼくに見せた。ほくは気分が悪くなり何度も吐いた。刑事はぼくを罵りながら何度も何度もぼくに惨殺死体の写真を見せ五人の名前と年齢を繰り返し言った。
そして、刑事は愛する亜衣子を殺したショックのためになにも話せないぼくに代わってぼくの自供を創作した。刑事の強引な要求に従って刑事の創作した調書にサインをした自失忘然のぼくは五人の人間を殺した凶悪な殺人犯となった。
調書によるとぼくはお金を盗むためにM市のはずれにある崎浜家に縁側のガラス戸を開けて侵入したそうだ。家に侵入したぼくは七十三歳になる崎浜誠太郎という老人の胸をナイフで刺して殺したそうだ。次に七十一歳の崎浜梅子を絞め殺したそうだ。孫の五歳になる崎浜俊一と三歳になる双子の崎浜麗華と沙耶華もナイフで次々と刺して殺したそうだ。残忍な殺人をやったぼくは血まみれの崎浜誠太郎のポケットからサイフを奪い、タンスの引き出しから九万円を盗んで玄関から逃げて行ったそうだ。サイフは逃亡の途中で捨てたが、まだ見つかっていないらしい。九万円の金はぼくのバッグに入っていた十三万円の一部であるという。そのように書いてある刑事の創作した調書を軸にしてぼくの裁判は進行した。
ナイフに付いている血の血液型はA型であり崎浜誠太郎の血液型と同じだった。しかし、ぼくのナイフに付いていた血は崎浜家の人間の血ではない。遺伝子の検査をすれば崎浜家の人間の血ではないことはすぐに分かったはずだ。ところが警察は遺伝子検査でもナイフに付いていた血は崎浜家の人間の血であることが証明されたと裁判で証言した。それは嘘だ。そんなことはありえない。ぼくのナイフに付いた血は絶対に崎浜家の人間の血ではない。断じて違う。断じて違うのだ。ナイフに付着していた血はぼくの最愛の女性の血だ。神聖な血なのだ。小汚い老人の血なんかじゃない。神聖な血が薄汚れた老人の血であると想像するだけでぼくは吐き気がした。ナイフの血は薄汚れた老人の血ではない。断じて違う。検事がぼくが老人をナイフで刺し殺した犯人であると主張するならぼくは甘んじて殺人犯になろう。ぼくは愛する女性を殺した最低の男だ。そんなぼくは老人を刺し殺した犯人にされてもいい。しかし、検事がナイフを振りかざしてそのナイフで小汚い老人を刺し殺したと自身満々に話すのにはぼくはとても耐えられなかった。ぼくは神聖なナイフを小汚い老人を刺したナイフにしないでくれと叫びたかった。しかし検事の口上はぼくの心をあざ笑うかのように神聖なるナイフをどんどん汚していった。崎浜誠太郎、崎浜梅子、崎浜俊一、崎浜麗華、沙耶華の崎浜家の五人の人間を殺害したという調書にぼくはサインをした。検事が神聖なるナイフを振りかざしながら老人を刺し殺したナイフであると話すのは当然であると言えば当然である。しかし、ぼくは神聖なるナイフを汚している検事の話に怒りが込み上げてきて、「神聖なナイフを冒瀆するな。」と叫び検事に飛びかかって検事からナイフを奪い取りたかった。しかしぼくは失語症の人間のようになにも言えなかったし椅子から立ち上がる気力もなかった。無力なぼくは悲しみと悔しさの涙を流しながらじっと座っていた。
自供を最優先する日本の裁判だから刑事がでっちあげた調書の内容に沿って証拠は並べられ裁判は進行して裁判官は至極当然のようにぼくに死刑判決を下した。愛する亜衣子を殺した罪悪感に打ちひしがれているぼくには死刑判決に反駁する気力はなかった。

ぼくは愛する人を殺した。・・・・愛する人を殺す。・・・・それは人間の一番許されない行為だ。ところがぼくは愛する人を殺してしまった。ああなんということをぼくはやってしまったのだ。なぜぼくはあんな非道なことをやってしまったのだろう。ぼくは亜衣子を愛していた。深く深く愛していた。ぼくは愛する亜衣子から「さよなら」を告げられた。そしてぼくは亜衣子を殺した。なぜぼくは亜衣子を殺したのだろう。信じられない。あの時のぼくはどうかしていたんだ。ぼくの頭は狂っていたんだ。愛する亜衣子がぼくから去っていった性でぼくは嫉妬に狂いぼくの頭はおかしくなっていったんだ。絶望のどん底に落ちたぼくの心は悪魔になって亜衣子を殺したんだ。しかし、ぼくに亜衣子を殺す権利なんかあるはずがない。嫉妬に狂って愛する亜衣子を殺したぼくの行為は死刑に値する。そうだ。ぼくは処刑されて当然だ。ぼくは五人の人間を殺した罪で死刑判決が下された。それでいい。警察に捕まらなかったらぼくは亜衣子を殺した罪に一生苦しみ続け廃人になっただろう。ぼくは無実の罪で死刑になる。でもそれでいい。その方がいい。

固いコンクリートの上を歩いているがまるで雲の上を歩いているようだ。ぼくの体は震えが止まらない。足に力が入らない。腕に力が入らない。「心の整理をしたい。だから少しの間止まってくれ。」とぼくはぼくを抱えている刑務官に言った。しかし、刑務官の歩は止まらない。ぼくの顎はがくがくと痙攣していて発音がめちゃくちゃのようだ。ぼくの声は意味不明のうめき声になっている。だから刑務官はぼくの話を理解できないのだろう。
廊下をぼくの体は進んで行く。壁も天井も無言で後ろの方へ去っていく。ぼくの体を抱えている刑務官は無駄のない動きでコンクリートの廊下を歩いてぼくを絞首刑場へと運んでいる。容赦のない確実な歩み。刑務官はこの淡々とした動きでぼくを絞首台に連れて行ってぼくの首に縄をかけるのだろう。やがてぼくは絞首台に吊り下げられる。ぼくは命が果てる。八年前にぼくの命は絞首台で果てる運命と決まり、その時からぼくは死刑囚となり拘置所で八年と五十五日間を過ごしてきた。八年と五十六日目の拘置所生活はぼくにはない。ぼくはこれから処刑される。ぼくの命はもう少しで終わる。

 亜衣子が他の男と愛し合うのに耐えられないぼくは絶望と嫉妬に狂い亜衣子を殺した。嫉妬に苦しんでいたぼくは亜衣子を殺せば亜衣子はぼくの胸の中でぼくだけの亜衣子として永遠に生き続けると信じていた。しかし、それは間違っていた。亜衣子を殺したことでぼくにやってくる恐ろしい現実をぼくは予想していなかった。死んだ亜衣子が別の男と愛し合うことはなくなったので亜衣子への嫉妬はなくなった。しかし、ぼくも愛する亜衣子と愛し合う夢を見ることができなくなった。亜衣子が生きている時は亜衣子に嫉妬をして亜衣子を憎む日々が続いたが再び亜衣子がぼくの所に戻ってくることを思い描くこともできたしぼくは亜衣子と愛し合った日々を回想しながら想像の中で亜衣子と愛し合うことができた。それは亜衣子が生きているから想像することができたのだということをぼくは拘置所生活の中で思い知らされた。
亜衣子は死体になった。亜衣子の冷たい死体は火葬場に運ばれ火葬場の窯の一二〇〇度の炎で焼かれて骨と灰になった。生きている亜衣子はもうこの世からいなくなった。火葬場で焼かれた亜衣子の肉は灰となって火葬場の煙突から空中に飛散し焼け残った骨は骨壷に入れられてぼくの知らない場所にある墓に入っている。今はどこかの墓の中の闇で沈黙している亜衣子の骨があるだけだ。当たり前の事実であるが嫉妬に狂っていたぼくは死んだ亜衣子が骨になるという事実を想像しなかった。
ぼくの舌と激しく絡み合った亜衣子の舌は灰になって火葬場の煙突から空中に飛散した。ぼくの挿入を受け入れて激しく燃え、至上の喜びをぼくに与えてくれた亜衣子のあそこも灰になってしまった。ぼくにやすらぎを与えてくれた柔らかな愛子の乳房も灰になってしまった。亜衣子の瞳、亜衣子のくちびる、亜衣子の太もも、亜衣子の・・・。ぼくと愛を語らいぼくの肉体と絡み合った亜衣子の白く柔らかな肉体は灰と骨になってしまった。もうぼくは亜衣子の唇とぼくの唇を重ねることはできない。亜衣子の舌を吸うこともできない。亜衣子の胸を愛撫することも亜衣子に挿入することもできない。ぼくが亜衣子を愛撫することも亜衣子がぼくを愛撫することも二度とない。
独房の孤独で寂しい生活を送っていたぼくは冷たい床に横になりながら亜衣子と愛し合う夢想をして心を癒そうとした。しかし、ぼくに微笑んでいる亜衣子を夢想することができるのはわずか数秒だった。亜衣子の微笑んでいる姿はすぐに消え、火葬場の窯の前の台の上に散らばった亜衣子の白い骨や墓の中の壷に入っている亜衣子の骨がぼくの頭に浮かんできた。ぼくは亜衣子と愛し合う夢想を見ることはできなくなった。骨の亜衣子を打ち消して柔らかな肉体の亜衣子をイメージしようとしてもぼくはできなかった。
夢は夢想より恐ろしかった。亜衣子とキスをしていると舌がざらざらしたので変に思い目を開いて亜衣子を見ると亜衣子の目は空洞になっていて鼻も空洞になっていて歯と骨だけの骸骨とぼくはキスをしていた。驚いて骸骨から離れると剥き出しの歯がガチガチとぼくに噛み付いてきた。ベッドの上で亜衣子とぼくが重なって激しく上下運動をしているとぼくの胸が針に刺されたようにちくちく痛くなった。下腹部のあたりも鋭い石にぶつかっているような痛みを感じた。ぼくが下になっている亜衣子を見ると亜衣子は骸骨になっていた。ぼくは骸骨になった亜衣子の上に乗っていたのだ。亜衣子の胸骨がぼくの胸を突き刺した。ギャーとぼくは叫んで骸骨から離れようとすると骸骨がぼくを掴んで離さなかった。足の骨もぼくに絡んできた。ぼくは骸骨から逃れようと必死にもがいた。ぼくがもがいていると骸骨はボキボキと折れて崩れた。ベッドには亜衣子の骨が散乱していた。
夢の途中で亜衣子はいつも骸骨に変貌し、ぼくは夢の中でも亜衣子と愛し合うことができなかった。亜衣子が死ぬということは亜衣子が骨になるということだったのだ。亜衣子を殺すということは亜衣子を骨にしてしまうということだったのだ。亜衣子を殺すということは骸骨と愛しあう夢を見てしまうことだったのだ。そのことをぼくは亜衣子を殺して初めて知った。ぼくは亜衣子と愛し合う夢を自分の手で消滅させた浅はかな人間だ。亜衣子が生きていたらいつかは亜衣子と愛し合う日が来るのを夢見ることができる。しかし、ぼくは亜衣子を殺した。亜衣子はもうこの世にいない。この世にいるのは亜衣子の骨だけだ。ぼくは骸骨と愛し合うことはできない。ぼくは亜衣子と愛し合うのを夢想することも亜衣子と愛し合う日が来るのを期待することもできなくなった。亜衣子が生きていれば愛し合う日が来る可能性はゼロではない。亜衣子が死んでしまっては亜衣子と愛し合う日が来る可能性はゼロだ。ぼくは亜衣子と愛し合う可能性を自分の手でゼロにした愚かな男だ。
ああ亜衣子。微笑むと八重歯がかわいかった亜衣子。はきはきとかわいく話してぼくの心を明るくしてくれた亜衣子。ぼくに安らぎと至高の喜びを与えてくれた亜衣子。・・・・ああ、ぼくは亜衣子を殺した。亜衣子は骨になった。骨はもう亜衣子ではない。愛する亜衣子を殺したぼくは浅はかで愚かな人間だ。もう、現実でも夢でもぼくは亜衣子と愛し合うことはできない。なんてことだ。なんてことをぼくはしでかしてしまったんだ。こんなことになるのだったらぼくは亜衣子を殺さない方がよかった。愛する亜衣子を殺してしまったぼくは愚鈍な人間だ。ぼくに生きる価値はない。

絞首台へ運ばれる前の儀式が始まったようだ。ぼくは椅子に座っている。小さな部屋には見たことのある人間が数人座っている。見たことのない人間も数人座っている。儀式は進行しているようだ。やがて儀式が終わるだろう。儀式が終わると、ぼくは絞首台に運ばれていき吊るされる。ぼくの喉に縄が食い込んでぼくの首はへし曲がり、ぼくの息は止まり、ぼくの心臓は止まる。・・・ぼくに生きる価値はない・・・でも恐い・・恐い・・ぼくは生きる価値のない人間だ・・でも死ぬのは恐い・・・ぼくの足は震えている。小刻みに震えている。震えている足は力が入らない。儀式が終わったようだ。ぼくは立たなければならない。でも立てない。体全体が小刻みに震えている。足に力が入らない。立てない。ぼくは立てない。・・・恐い・・・ぼくの体は立つことを恐がっている。ぼくの本能は死を恐がっている。ぼくの足は死を恐がってがたがたと震えている。腰が抜けて崩れそうになっているぼくの体は死に恐怖している。死の恐怖で動けないぼくの体。立てなくなったぼくの体を刑務官は手馴れた動きで両脇から持ち上げるようにしてぼくを立たせた。・・・ああ、待て、待ってくれ。崎浜家の五人の人間を殺したのはぼくじゃない。ぼくは強盗殺人の真犯人じゃない。絞首刑にされるべき人間はぼくじゃない。・・・・ぼくは必死に叫んだ。しかし、ぼくの叫びは意味不明のうわごとになっている。
ぼくは完全犯罪を実現させた。完全なアリバイ工作だった。それなのにこんなことになるなんて・・おかしい。なぜなぜぼくが完全犯罪を実現した日にM市で強盗殺人が起こったのだ。ひどい偶然だ。残酷な偶然だ。この世は不条理だ。・・・不条理・・・不条理といえば気になることがある。もしかすると・・・いや、あり得ないことだ。しかし、もしかすると・・・・・亜衣子は本当に死んだのだろうか。もしかすると亜衣子は生きているのではないだろうか・・・・亜衣子が生きているかも知れないという不安が頭をよぎったことは何度もあった。しかし、ぼくはその不安をすぐに打ち消した。死刑判決が下ったぼくにとって亜衣子は死んでいなければならないからだ。ぼくの死刑判決は亜衣子の死とバランスが取れた関係にある。だからぼくが死刑判決になったのだから亜衣子は死んでいなければならない。ぼくは亜衣子が生きていると想像することは避けてきた。しかし、もし亜衣子が生きていたら、ぼくの死刑判決は不条理だ。喜劇だ。滑稽だ。その事実を世間が知ったら世間はとんまなぼくを失笑するだろう。死刑判決を宣告されたぼくがとんまな存在にならないために亜衣子は死んでいなければならないのだ。そう、亜衣子は生きていてはいけないのだ。
亜衣子が生きているはずはない。ぼくは亜衣子をナイフで刺した。三箇所もだ。ぼくは亜衣子の首と胸と腹を刺した・・・はずだ。だから亜衣子が生きているはずはない。そうぼくは確信している。しかし・・・・。
 刑事は一度も亜衣子が殺されたうわさ話をしなかった。隣りの街で起きた同じ日の殺人事件なのだから刑事が亜衣子殺しのうわさ話をするのは当然だ。それなのに刑事は隣りの街の殺人事件の話をぼくの前では一度もしなかった。もしかすると殺人事件はなかったということか。もしかすると亜衣子は生きているのだろうか。亜衣子は死んだのかそれとも生きているのか。亜衣子が死んだのならぼくは死の判決を受けても仕方がない。しかし、亜衣子が生きているなら死刑判決はぼくにとって不条理だ。とてもむごい判決だ。亜衣子は死んだのか死ななかったのか。知りたい。とても知りたい。今までは知ることを躊躇していた。しかし今は知りたい。ぼくは亜衣子を刺した。鮮血が飛び散っていた・・・はずだ。力なく倒れ込んだ亜衣子だった・・・はずだ。いや違う。思い出した。死刑の前の異常な緊張がぼくの記憶力を明晰にしたようだ。亜衣子が鮮血を流しながら倒れたのをぼくは見ていない。それはぼくの妄想だった。ぼくは亜衣子を刺した直後に一目散に逃げた。ぼくは亜衣子の鮮血を見ていないし倒れる姿も見ていない。ぼくは亜衣子を刺した前後の記憶を失っていたのだ。亜衣子を刺し殺したという強い思い込みが血を流しながら倒れていく亜衣子の姿をぼくは妄想していたのだ。
でもぼくが亜衣子を刺したことは確実だ。だから亜衣子は死んだ・・・はずだ。生きているはずはない。いや、亜衣子が百パーセント死んだと断言することはできない。ぼくは亜衣子の死を確かめてはいない。しかし、亜衣子が死んだ確率は九十九パーセントはある・・・と思う。残りの一パーセントは亜衣子が生きている確率として残る。一パーセント、一パーセント、一パーセント。不気味な一パーセントだ。なんだか九十九パーセントより一パーセントの方が確率が高いような気がしてしまう。
亜衣子は死んだのだろうか。それとも生きているのだろうか。どっちなんだろう。亜衣子が生きているのならぼくにも生きる権利がある。亜衣子が生きているのならぼくの死刑は不条理だ。ああ、亜衣子の生死がとても気になる。亜衣子が生きていればぼくの死ぬ理由はなくなってしまうのだ。亜衣子は死んだのか死ななかったのか。ぼくは知ることができない。ぼくが知っているのはぼくは無実の罪でこれから処刑されるということだ。ぼくは死にたくない・・・・・・・。
・・・もしかすると亜衣子は生きているかもしれない。いや亜衣子は生きている。きっと生きている。亜衣子は生きているんだ。あ、亜衣子がぼくの無様な姿を見て笑っている。ああ、なんてことだ。ぼくを裏切った薄情な亜衣子は生き残っているのにぼくは首を吊るされて死んでしまう。こんな理不尽なことがあっていいのだろうか。亜衣子め。ぼくを裏切った亜衣子め。あ、亜衣子がぼくを見て勝ち誇ったように笑っている。ああ、惨めだ。ぼくを不幸にした亜衣子め。薄情で卑劣な女め。許さないぞ。ぼくは絶対にお前を許さないぞ。お前を恨むぞ。笑うな。勝ち誇った笑いをするな。お前をこの世から抹殺してやる。勝ち誇った笑いをしているお前の顔を切り刻んでやる。笑うな。ぼくを笑うな。くそ、浮気女め。殺してやる。殺してやる。今度こそ完全にお前の息の根を止めてやる。
あれ、急に目の前が暗くなった。どうしたのだ。ガチャガチャと金属音がする。手錠の音か。ぼくは手錠をかけられ目隠しをされて絞首台に運ばれているのか。ちょ、ちょっと待ってくれ。ぼくは崎浜家の人間を殺してはいない。本当だ。ぼくは死刑になるような犯罪を犯してはいない。ぼくは亜衣子を傷つけただけだ。傷害罪のぼくを死刑にするなんて間違っている。死ぬのは嫌だ。待て、待ってくれ。ぼくは真実を話す。真実を話すから待ってくれ。待ってくれ。とにかく待ってくれ。うう、声が出ない。うう、どうしても声が出ない。とにかくだ。ぼくを裏切ったあの女が悪いのだ。ぼくがあの女を刺したのはあの女の性なんだ。全てはあの女が悪いのだ。本当だ。嘘じゃない。だから待ってくれ。ぼくを引きずらないでくれ。ぼくは死にたくない。ぼくは死にたくない。この死刑は間違っている。本当だ。ぼくを死刑にするのは間違っているんだ。わかってくれ。ぼくを引きずらないでくれ。止まってくれ。ぼくが真実を話す。真実を。お願いだ。ちょっ、ちょっと待て。
待ってくれ。ぼくは・・えっ・うぐっ・・・・
・・・・・・・・・・。


  
Posted by ヒジャイ at 12:47Comments(0)小説

2017年11月12日

詩・天皇を崇拝はしないが尊敬する


国民が大企業を支配する
郵便貯金が三〇〇兆円もあるのにはびっくりだ
日本国民は金持ちじゃないか
三〇〇兆円で
大企業の株式を買い占めれば
大企業は国民のものになるじゃないか

下手な労働運動するより
労働者は預金しないで株を買ったほうがいい
株主というのはブルジョアジーであり会社の所有者なのだ
経営者より偉いのだ
経営者を召使いにするのだ

天皇を崇拝はしないが尊敬する
笑い方まで要求されるのか
オランダで
はじけるような笑顔をしたら
日本の文化人はケチをつけた

笑いでさえ厳しくチェックされる
そこまでどうのこうのいう人たちは
すごく偉い人たちなのだろう

オランダで素直な心で笑っていいのでないか
自然にはじける笑いが出てきたのだから
それでいいのではないかと私は思う
日本でもあのようなはじけた笑いをしなければならないなどというが
そんなことは無理なことで
日本ではできないのならそれはそれでいいのではないか
日本では日本の支配者に要求される笑いを痛々しく精一杯やっているのだから
それでいいのではないか

皇族と国民の隔たりは次第に大きくなっているような気がする
日本とオランダ
オランダで幸せな顔をしたからケチをつけられた

オランダではカメラマンが皇女に「アイコ、アイコ」と声をかけてもいいそうだ。
でも日本ではカメラマンが声をかけるのは禁止されているそうだ。

日本では平民が気安く声をかけてはいけない。
気楽に話してはいけない。
指定された人しか話してはいけない。

透明で厚い壁
天皇は国民に手を振り日本国民の平安と世界平和を願うとマイクに話す
参列した人々は日の丸を振る
それに答えて天皇陛下は手を振る

それにしてもどうしてあんなに分厚いガラスが天皇と国民の間にはあるのだろう
人間のけしからぬ行為を防ぐためだと思うが
あんなぶあついガラスが必要なのだろうか

天皇と国民の間にある厚い透明な壁
透明な壁をしきりに厚くして
しきりに強くしている連中がいるように
私には思える。

国ってなんだろう
国ってなんだろう
分かるようで分からない
国民というと
国の民ということになるが
国の民というと
国に尽くす民ということになるのだろうか

戦前は天皇陛下のために死ぬというのが国民の義務であったらしい
靖国で会おうと言って戦争で死んでいったらしい
靖国というのは
国のために戦って死んでいった者たちを讃える神社らしい
天皇陛下バンザイと死に
靖国に入ったけれど
その天皇が靖国に行かなくなった
行かなくなったことには深い理由があるだろう

はっきりしていることは
靖国は天皇と同じではないことだ

でも天皇陛下ばんざいと言って死んだものたちにとっては
天皇と靖国は同じ存在だっただろう

多分
靖国は武士の思想がいっぱい詰まっているのだろう
天皇は皇族で
武士ではないのだから
武士の思想である靖国になにかひっかかりができたのだろう

武士と皇族の
思想のずれ
それが
今の靖国かも知れない

日本の政治というと
日本の政治というと
憲法はアメリカのGHQが作ったもので
アメリカか望んだ民主主義憲法ということで

でも日本は軍国主義だったし
自由民権運動家は弾圧されて
民主主義思想が熾烈な弾圧によって骨抜きにされた
その絶頂期に
日本が戦争に負けて
日本国憲法ができた
だから
形式は民主主義になったのに
日本のリーダーは軍国主義と社会主義と共産主義しか残っていなかった
だから
どうやら
日本の民主主義思想は脆弱のようだ

日本には民主主義思想家は居ない
と言いたくなるほどである

共同幻想論
マルクスのドイツイデオロギーという本に
「国家とは共同体的幻想である」
と書かれているのを読んだ時
そうかそうなんだ
国家とは共同体的幻想なんだと私は思い
納得した。
すると吉本隆明が
共同幻想論という本を出した。
若い私はとても期待してその本を買って読んだ。
マルクスの「国家とは共同体的幻想である」を
解明する本だと信じていた。
吉本隆明の共同幻想論は
個人幻想
対幻想
家族幻想
から共同幻想へと理論は展開されていった。
あれ変だぞと私は思った。
吉本は共同体的幻想を
共同幻想と思っている。
共同幻想なんて存在しない。
だからマルクスは「的」幻想といったのだ。
こいつはマルクスを分かっていない。
幻想の天皇崇拝時代を生きた人間だから
仕様がないかもしれない・・・・。

それから、
吉本隆明の本を読んだことがない。

  
Posted by ヒジャイ at 11:24Comments(0)

2017年08月21日

8月21日の記事

今年の暑さは異常である


今年の季節は異常である。太陽光線が強い。そして、雨が降らない。
きゅーり、冬瓜、モウイなどの野菜は夏の異常な暑さに負けて枯れてしまった。ゴーヤーは元気である。どんとん延びていき、屋根の上にまで届いた。元気ではあるが、やはり暑さの影響は出ている。最初の頃は実は大きかったが、いまでは実が拳よりも小さくなっている。
今年の暑さは異常である。

  
Posted by ヒジャイ at 16:12Comments(0)

2017年07月24日

真珠湾攻撃

日本には武士思想と社会主義思想しかないのか
日本は民主主義国家なのに
日本には武士思想と社会主義思想しかない
と私が言ったら
多くの人が苦笑するだろうな

おいおい
民主主義は難しい思想じゃない
だれもかれもが民主主義は理解している
日本は国会議員も地方議員も選挙で選ばれているし国民は
選挙に参加しているよ

うん、そうだね。
と私はうなずく
その後に首を傾げる

でも、
国会には武士道意識の強い議員が多い
で世の中は
品格が流行している。

まあ、それはそれでいいのかも知れない。
なにがいいのかも知れないのかは言えないか。

司馬遼太郎大先生も
武士が政治をするものだと考えていた
武士幻想が日本には根強い

高杉晋作の騎兵隊は平民の軍隊で
江戸幕府の武士軍団をやっつけた
現実はそんなものだ
武士だから戦争に強いとか
意思力が強いとか
ていうのは幻想だ
武士も人間
平民も人間
才能に差はないということだ

民主主義社会なのだよ
なぜ
武士道なのだ
変だよ

武士はそんなに立派だったのか
違うだろう
政治は武士しかできなかっただけのことだ
武士が知に優れていたわけではない
武士が武の才能があったわけではない
武を身に付ける権利が武士だけにあったというわけだ
当たり前の話だが
でも
武の才能は武士だけにあったと錯覚している人々は以外に多い

武士も平民も
生まれた時は同じ才能であったと
いうわけだ
それだけのこと

大発見
戦後六十年で大発見したと言えば
議会制民主主義国家と議会制民主主義国家は
戦争しないということだ

こいつは歴史的大発見だ

民主主義国家と民主主義国家は戦争しないなんて馬鹿なこと言うな

君は言うかも知れない。
民主主義国家でも性悪な大統領なら戦争をしてしまう

君は思うかも知れない。

ところがそれは間違いだ。

イギリスとアメリカが戦争するだろうか
フランスとイギリスが戦争をするだろうか

しないね
断言できる

武士と天皇の対立
明治になり
天皇制になったのだが
よく考えてみると変な感じだ
天皇はいわゆる皇族なのであり
でも江戸幕府を倒したのは長州藩や薩摩藩などの武士階級なのであり
明治政府を作ったのは武士である
武士政権から
武士政権になっのであり
皇族政権になったわけではない
なぜ
最高権力者は天皇なのか
武士ではないのか
変である
天皇が最高権力者であるのなら
天皇を支える内閣は皇族で構成されるはずなのに
藩閥で占められている
おかしいではないか
本当に天皇が支配していたのか疑問である

昭和天皇は本当に
日本の国民が「天皇陛下ばんざい。」と言って天皇陛下のために死ぬのを望んだのだろうか。
国のために死ぬということは天皇陛下のために死ぬということらしいが
昭和天皇は自分のために国民は戦争をやり自分のために「ばんざい。」と叫んで死ぬのを当然と思っていたのだろうか。
武士の時代の前に
貴族の時代があり
貴族の長は天皇で
武士は天皇から政治権力を奪ったがその位は奪わなかった
つまり花より団子を選んだ

考えてみると
明治は外様藩が江戸幕府から権力を奪った
クーデターだった
いわゆる体制が変わったように見えるが
明治も武士が政治権力を握ったわけで
武士の政治が変化しただけだった
江戸幕府の鎖国政策を解いただけだ

貴族に玉砕の思想があるのだろうか

そう言えば
奈良時代
平安時代
戦国時代のように血で血を洗う戦争はなかった
長い平和な時代に
貴族は戦争のやり方さえ忘れていった

貴族時代には大陸を攻めることもなかった

国取り物語は武士の物語

軍国主義というのは武士が国を完全支配するというものなのだろうか

真珠湾攻撃
トラトラトラ
真珠湾攻撃
中学生の私は世界地図でハワイを見ながら
日本軍がハワイの真珠湾攻撃をなぜやったのか
不思議だった。
アメリカ本国はハワイのはるか東だ
首都のワシントンDCやニューヨークは大きい北アメリカ大陸の
遥か東側にあるのだ。

アメリカに本気で勝つ気があったのだろうか

中学生の私は疑問に思った
中学生ですよ
ハワイを攻撃してハワイを占拠してもアメリカを征服するのは不可能だ
そう確信できる

アメリカと戦争するなんて
頭がおかしいとしか思えない
と子供の私は思った

変だよ 本当に変だよ
ハワイに奇襲をかけるのがやっとであるのに
アメリカに勝つには
アメリカ本国に上陸して
大陸全体を支配しなければならない。
無理だ無理だ無理だ。とても無理だ。

あの時の日本の指導者は頭がおかしかったのではないだろうか

アメリカに勝つシュミレーションを子供ながらにやったが
妄想を平気でやる中学生の私でさえ
アメリカ征服のシュミレーションは無理だった
  
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2017年06月30日

又吉康隆

やっと、小説が書けるかもしれない。
書いてみないとどうなるかわからないが、とにかく頑張るしない。
三か月ごとに「沖縄内なる民主主義」を出版しながらだからかなり厳しいことは厳しい。
でも小説を書くのが生き甲斐だから、頑張らなければな。  
Posted by ヒジャイ at 19:30Comments(0)